アルゼンチンの川柳
川柳人協会会員 江 崎 紫 峰
アルゼンチンについては現地関係者、参考図書、研究者が思うように見つからない。
唯一連絡の取れたのが1962年に渡亜し現在番傘本社同人の小川千年氏である。入手した参考図書・資料も
①世界川柳誌上大会発表誌『まんはったん1963』(萬発端川柳吟社)コピー
②『川柳 番傘』への投稿原稿コピー
③2015年7月にアルゼンチン文芸界を訪問した細川周平国際日本文化研究センター教授から頂いたお手紙のみである。
このような状況下であるが、わかる範囲でアルゼンチンの川柳事情を概説する。
(1)アルゼンチン川柳の歴史
①日亜時事が1942年に江原武智人(番傘本社同人)を選者にして日亜柳壇を開設。②1945年3月にアルゼンチンが対日宣戦を行い、日本語新聞その他一切が発行禁止となり、川柳も発表の場を失う。
③戦後1948年に柳壇が復活。当時の既成作家としては杉田晩之介や小西瑞恵等がいて、当時の川柳人口は約50人であった。
④(まもなくして)江原武智人は川柳ブエノスを創設。
⑤その後、杉田晩之介の空瓶会や、藤井青米の松かさ川柳会ができ、川柳も盛んになり全亜川柳大会を開催した。
⑥1962年の萬発端川柳吟社主催の「世界川柳誌上大会」に川柳ブエノスと松かさ会から11人が参加し、原田内々が総合第4位に入る。(この時期空瓶会は休会中)
[参加者]
沢田満平、倉田文太、伏見夢女、伏見流星、原田内々、佐藤秀代、
田中太郎、藤井青米、佐藤残香、永見昭三、小山三郎
⑦1994年には川柳吟社は川柳ブエノスと空瓶会の二つに。
⑧2000年過ぎには300回以上例会を続けて来た川柳ブエノスも一世の減少に伴い自然消滅した。
⑨2014年にはネウケン州(チリに接する州)の小さな川柳コマウエのみに。元番傘誌友の松井美稚子さんらが活動している。
(2)「世界川柳誌上大会」(ニューヨークの萬発端川柳吟社主催)の概要
①萬発端川柳吟社の概要崎村白津、橋本京詩、田中香民、米岡日章の4氏によって1954年に創設
②大会の運営
アメリカ(総務橋本京詩、会計崎村白津、委員米岡日章ほか3名)
日本窓口(大嶋涛明の支援で川柳噴煙吟社に連絡事務所を置く)
ブラジル窓口(安藤魔門)、アルゼンチン窓口(江原武智人)
ぺルー窓口(清広亮光)、ボリビヤ窓口(荒井碧)
③日本の選者
川上三太郎、村田周魚、岸本水府、椙元紋太、大嶋涛明
④投句者
日本395、アメリカ148(本土131、ハワイ17)、ブラジル50、アルゼンチン11、ペルー8の合計612人。総投句数は約13500句
(3)世界川柳誌上大会に入選したアルゼンチン川柳(抜粋)
「世界」 川上三太郎 選 | |
又一つ国が生まれた世界地図 | 沢田満平 |
「心」 三上茶里 選 | |
決心の静かな皺の手を広げ | 倉田文太 |
トゲを持つバラの心が解かりかけ | 伏見夢女 |
「分れ道」 岡田柳華 選 | |
この道は地図になかった分れ道 | 田中太郎 |
行く程にあれだったかと分れ道 | 藤井青米 |
「先祖」 椙元紋太 選 | |
訪日へ先祖の墓参頼まれる | 原田内々優 |
ご先祖へ済まないなどと正座する | 田中太郎 |
「独り(孤独)」岸本水府 選 | |
独り住む女の意地が崩れそう | 原田内々 |
二席 月おくれの週刊誌手に独り読む | 原田内々 |
「晩婚」 本田露角 選 | |
秀 晩婚は春を忘れた訳でなし | 伏見夢女 |
客 晩婚を恥じずはだかで来た移民 | 原田内々 |
「糸」村田周魚 選 | |
歯で糸を切る娘がチラと母に似る | 沢田満平 |
糸たれて日本に続く水恋し | 伏見夢女 |
「国連」 大嶋涛明 選 | |
秀 国連で水爆持ったのが威張り | 沢田満平 |
秀 国連の興奮笑う月世界 | 伏見夢女 |
「ヒント」 国次史郎 選 | |
道灌の雨へヒントの花一枝 | 佐藤秀代 |
客 凡人の目を見てヒント悲しかり | 小山三郎 |
「視線」 築山快夢起 選 | |
脚線美視線あつめるように掛け | 藤井青米 |
視線で追うてまだ好きですといえぬ仲 | 永見昭三 |
「欲」 堀田栄光花 選 | |
肩書きがズラリ欲張ったように見え | 原田内々 |