アメリカの川柳
川柳人協会会員 江 崎 紫 峰
(1)アメリカ川柳の歴史
アメリカへの日本人の移民は1896年にシアトル、翌年にサンフランシスコ航路が開設したことに始まる。そしてアメリカ川柳は1910年(12年説もある)にワシントン州ヤキマに誕生した蛙鳴(あめい)会が先駆けで、その後1929年に誕生した北米川柳互選会(開祖 本田華芳)が最初の牽引役となり、日系移民史に特異な足跡を残しつつ記念すべき百年を経過した。日系移民者にとって川柳は文芸を超えた「生活の記録、感情の詩」(清水基蜩)であった。太平洋戦争における強制収容所生活は日系移民者にとって過酷ではあったが、川柳熟成の時期でもあった。戦後一気に川柳は全土に開花し、1960年前後には川柳吟社は 16社、川柳人口は500人超になった。この最盛期に特筆すべきは橋本京詩らの萬発端(マンハッタン)川柳吟社が1962年に主催した「世界(インターナショナル)川柳誌上大会」である。
戦後の川柳を主導してきた川柳つばめ吟社は2002年に解散し62年の歴史に終止符を打った。そして、長く川柳界を指導して来た山中桂甫、花見留雄は相次いで亡くなった。
(2)川柳に見る日系移民百年史
関三脚氏が羅府新報の羅新川柳欄(1938年開設)等から集録した約700句の川柳を戦前、戦中、戦後に分けて7句ずつ紹介する。①戦前の作品(プライバシー保護のために作者名は伏す。以下同じ)
犬のような名前もらって皿洗う |
電球が湯たんぽになる夜の冷え |
市民権産んだ手柄の女房なり |
踏まれつつ二世は強く伸びて行き |
市民権なくてまたもや泣き寝入り |
秀才も雇ってくれぬ肌の色 |
ヤンキーになれずジャップに亦なれず |
一時間待った食事の軽い皿 |
生きるため誇りを捨てて列に入り |
統制で皮食う事も教えられ |
しあわせな草がフェンスの外に生え |
宿命の子は日本へ銃を向け |
忠誠を遺骨となって認められ |
発狂のあとも帰国を口走り |
さげすみの涙に一人ミシン踏む |
進駐の子に親切であれと書き |
土地法の過去を笑って土地に生き |
国訛りハンバーガーに風化せず |
一世の枕木あって客車行く |
根づかせた桜を愛でて移民逝く |
イチローに忍者を見てるアメリカン |
川柳の作品は、例外的な天分をもつ個人の単発的な作品ではない。コミュニティーとしての広がりと継続性を持っている。アメリカの川柳は生活感にあふれ、移民の喜怒哀楽をいきいきと伝えている。
社会史の視点から見ると、日々の生活が即時的に、しかもある程度の人数に詠まれている点に、作品の質とは切り離して考えても、資料的価値がある。
(3)アメリカ川柳界の現況
①現在の吟社・新聞川柳欄
現在活動が確認されているところは、シアトル地区の北米川柳吟社、タコマ川柳吟社、サンフランシスコ地区の桑湾川柳吟社(日川協加盟)、桜府川柳吟社、ロサンゼルス地区のパイオニア川柳吟社、羅新川柳ら。サンフランシスコの日系新聞社が倒産し、桑湾川柳吟社はサンノゼの銀行の会議室で句会を開催しており、2016年の創立70周年記念大会の開催に向け準備をしている。なお、最近ネットを活用した新しい型の川柳吟社が育ちつつある。②現状の問題点
現在、どの川柳吟社も「日系新聞社の消滅」、「会員の超高齢化」、「指導者・リーダーの不足」という大きな危機を迎えており、大きな運営の岐路に立たされている。日本からの支援、日本からの指導者派遣等が切望されている。なお、ハワイ地区は1990年以降ウィロー川柳吟社らの消息が絶たれている。消息をご存じの方は是非お知らせください。