川柳人協会

川柳の歴史

川 柳 人 協 会 

俳諧から古川柳の時代

 川柳を理解するためには簡単な歴史も知っておいたほうが良いと思います。その発生から、どうして川柳という文芸名になったのか、そしてそれが現代にまで、どう繋がってきたかを知ることで、自信にもなり、作句にも弾みがつくのではないでしょうか。

 俳諧とは俳諧の連歌を略していうもので、現代でも連句として続いています。連歌とは和歌の上句(五・七・五)と下句(七・七)交互に詠み、唱和していく形態の文芸で、和歌の歴史とともに育ってきました。それを貴族や武士たちで楽しんでいましたが、そこにおかし味を加えたのが俳諧の連歌です。俳諧とは、本来おどけ、たわむれ、滑稽などの意味があります。俳諧の連歌を略してただ俳諧と言うようになりました。そのことが庶民層にまで広がっていった要因です。

 最初の五・七・五を発句と言い、次の七・七の短句が第二です。そしてその二句目を脇若しくは脇句といいます。次が第三です。以下五・七・五の長句、七・七の短句と交互に唱和していきます。最初は一〇〇連とか、五十連などと、長く続けられましたが、江戸期には三十六連が普通になりました。だからこれを歌仙とも言い、歌仙を巻くなどと言っています。前句とどう響き合うか、どう変化してゆくかを楽しむものです。そして最後は七・七の短句で締めます。これで一巻となるのです。最後の短句を挙句(揚句)と言います。挙げ句の果てとはここから生まれたのです。

 発句にはいくつかの条件がありまして、その中に季語と切れ字があります。この発句が現在の俳句です。そして平句の付け合いの修練の一つとして、前句付けが流行してきます。これが万句合の興行にまで発展して、専門の点者(選者)が出てきます。その点者の一人に柄井川柳がいました。
 柄井川柳の一番最初の万句合の開き(発表)が宝暦七年(一七五七)八月二五日にありました。そのときの前句「にぎやかなこと にぎやかなこと」の入選句に
五番目ハ同じ作でも江戸産レ
ふる雪の白キをみせぬ日本橋
子を捨る藪とハ見へぬ五丁町
 などがありました。江戸の賑わいを伝えるものです。一句目は当時の六阿弥陀詣での流行であり、二句目は日本橋の賑わいであります。三句目は吉原の賑わいですが、女性にとっては苦界でしかありませんでした。

 柄井川柳点が人気になり一回の興行にも二万句を超えることもありました。これは明和二年(一七六五)に出た『誹風柳多留』(以下『柳多留』)初篇が出まして、この頃にはすでに一一篇が出ています。それが援護射撃としてはあっただろうことは容易に予想されます。その『柳多留』ですが、これは柄井川柳が選をした作品をさらに選りすぐって出来た選集です。編集は川柳点への投句者でもあった、呉陵軒可有、書肆(出版社)は星雲堂花屋久次郎でした。これが当時のベストセラーとなり、人気を博すことになります。この『柳多留』は天保一一年(一八四〇)までにに一六七篇まで出ます。初代川柳の点業は亡くなる一年前の寛政元年(一七八九)九月二五日の開きをもって終わります。三三年間の点業生活でした。寛政二年九月二三日に亡くなります。墓所は東京都台東区龍宝寺です。現在でもこの日を川柳忌として、各地で法要句会が行われています。そして菩提寺龍宝寺境内には、辞世とされる「木枯しや跡で芽を吹け川柳」の句碑があります。

 初代川柳の点業の一端を『柳多留』の作品で紹介してみましょう。
鶏の何か言いたい足づかい 初篇
むこのくせ妹が先へ見つけ出し二篇
雨垂れを手へ受けさせて泣きやませ三篇
仲直り鏡を見るは女なり四篇
押さえればすすき放せばきりぎりす五篇
 人情の機微から自然観察にまで鋭い目を向けながら、表現は優しくなっています。こうしたことが人気となる、バックボーンになっていたのではないでしょうか。

狂句から川柳改革まで

 初代川柳没後、しばらく弟子たちが川柳の点業を伝えますが、二代、三代の川柳号は初代の長男・次男が継ぎます。そして四代目が眠亭賤丸(一七七八~一八四四)です。本名を人見周助と言い、江戸南町奉行所の書物同心でした。四七歳で川柳号を継ぐことになります。彼が唱えたのが俳風狂句です。川柳風を継ぐものでありますが、文芸名として始めて独立したかたちとなります。
 そして五代目を腥斎佃(なまぐさい たづくり 一七八七~一八五八)が継ぎます。本名は水谷金蔵、幼少に両親を亡くし、佃島の漁師に養われ、名主職を継ぎます。養父母に孝養を尽くし、何度も幕府から褒賞されています。天保年間に時の老中水野忠邦は天保の改革を押しすすめ、奢侈の禁止や風俗を正すなど厳しい取締りを行ないました。そうした中で、腥斎佃は柳風狂句を唱え、句案十体を定めるなどして、厳しい監視の目を避けることにしました。柳風狂句とは、川柳風狂句というほどの意味です。狂句とはいかなるものであるか、作品を紹介することで理解してください。
①野や草を江戸へ見に出る田舎者柳多留 三一篇
②泥水で白くそだてたあひるの子一〇五篇
③岡持の従弟で見附水をまき一五五篇
④中直り角のあるのハ樽ばかり一五九篇
⑤偽の一字を二字にとききかせみよし野柳多留
 ①は上野と浅草、②の泥水は吉原、あひるはそこで働く遊女、③は形が似ている、④は角樽で、それ以外は丸いということ。それぞれ意味はわかりますが、言葉で遊び、それで笑わせようとするものです。人情の機微や人事のどんでん返しの面白さはありません。そうしたことで幕府や為政者の目を逸らさせ、川柳は生き延びてきたのです。こうした傾向は川柳だけではないでっしょう。和歌も俳諧も同じような道を歩かざるを得なかったのです。文芸全般の衰退期とも言える時代でした。元に戻るまでは明治維新と外国からの刺激を得ての覚醒を待つしかありませんでした。

 明治維新から三〇年、正岡子規らにより『ほとゝぎす』が創刊され、三三年には『明星』が与謝野鉄幹・晶子らによって産声を上げます。それに遅れて四年、阪井久良岐(昭和八年に久良伎と改名)、井上剣花坊らが川柳改革の狼煙を揚げるのです。

 明治維新を含めてこの時代の文芸復興は、概ね復古調です。正岡子規の主張は『万葉集』、芭蕉に還れ、でした。その例に倣って久良岐・剣花坊の二人も初期柳多留に還れ、と叫びます。江戸時代の作品を読み直して、初代川柳時代の作品に秀句が多いことを知ったのです。そのことを新聞『日本』で主張してゆきます。奇しくも新聞『日本』は子規が俳句・短歌改革をすすめた新聞でもあります。新聞『日本』は陸羯南が創刊し、国民主義を主張した新聞です。

 久良岐は川柳文学の本質は滑稽にあるとしながらも、「滑稽は須く自然なるべし、悪フザケを為すべからずである」と狂句調を否定しました。ここからが新川柳のスタートすることになるのです。その後久良岐は新聞『日本』を去り、『電報新聞』で、新川柳の普及に努めます。そのあと新聞『日本』では井上剣花坊が健筆をふるい、彼も新川柳を鼓吹します。「新題柳樽」欄を開設します。同時に当時の新聞はこぞって川柳欄を設けるようになり、新川柳は新聞から広まってゆきます。

 その頃の作品を何句か紹介する。
かるた会少し野心を持って行き無花果
さめた燗チビチビやって長い尻散髪坊
新年を迎へて子供あげを取り純 子
物思ひ電車のりんで飛でのき呑吐坊
角かくしさも重さうにこゞむなり水日亭
傾城の鏡に夕日落ちんとす六厘坊
令夫人乳母に来られて愚に返る三面子
上酣屋ヘイヘイヘイと逆はず当 百

大正時代から昭和前期まで

 久良岐門からは前田雀郎など学者、研究者が輩出した。剣花坊門からは実作者が育ちました。川上三太郎、吉川雉子郎(吉川英治)などがいます。また反戦川柳家鶴彬を庇護したことでも知られています。
 阪井久良岐と剣花坊の次代を背負ったのは六大家と言われる人たちです。その六大家の前に新興川柳について説明しておきましょう。

 川柳は前句付けから派生したものですから、本来は理知の文芸なんです。しかし明治維新から、各種の西洋文明が入ってきて、どの分野でもその影響を受けるようになります。川柳界とて例外ではありません。川上三太郎や中島紫痴郎などが「川柳は詩でなければならない。詩は時代の要請である」、「僕はあらゆる客観を排するものである」などと主張して、新傾向と言われる人たちが台頭してきます。その代表的な人物が北海道の田中五呂八、金沢の森田一二です。それ以外の人を含めて、彼等の作品をまず見てみましょう。
玉葱を裸にすれば何もなし森田 一二
仆されるものみな土に還るなり島田雅樂王
天井へ壁へ心へ鳴る一時川上 日車
三月も下旬一個の石の前木村半文銭
銃口の迫るが如く冬が来る白石朝太郎
足があるから人間に嘘がある田中五呂八
 確かにこれまでの作品とは違います。一読意味不明のようなものもありますが、作品の前に立って考えると、味わい深いものがあったり、共感するものがあります。人間の奥に潜んでいる得体の知れない、あるいは人間の本質に関わるものに気付かされるのです。川柳以外の文芸と肩を並べる理論が背景にあるからでしょう。

 新傾向からさらに新しいものを目指して新興川柳へと発展してゆきます。そして軍国的世の流れに抵抗する、新興川柳の中からやがて反戦川柳が噴き出してきます。これも時代の要請でしょう。時代に抗うことで川柳を伝えてきたというより、川柳という文芸を武器にして時代と戦ってきたのです。彼等の作品は尖鋭的で激しいものがありました。
カラクリを知らぬ軍歌が勇ましい中島 国夫
戦勝が産む若後家と親なし児後藤 閑人
手と足をもいだ丸太にしてかへし鶴 彬
 彼等の抵抗は届かず、やがて敗戦という結論で終わることになります。しかし彼等の作品は今なお光りを失わず、時代の証言として輝いているのです。

戦後、六大家時代から日川協発足へ

 その一方で、川柳界を引っ張って来たのは、六大家と言われる人たちです。戦前、戦中、戦後を通して、彼等は川柳界の先頭に立って川柳の旗を振り続けてきました。現在の川柳界の指導者は、何らかの形でこの六大家の影響下にある人たちです。六大家と言われる人が創刊した結社や雑誌を守って、彼等の理想を現代に即したかたちで引き継いでいるのです。作品はいずれも穏健で、時代にうまく溶け込もうとしている様子が見受けられます。六人の業績と作品を紹介してみます。

村田周魚(1889~1967)
 東京・下谷に生まれる。東京薬学校を終了して『薬学の友』主筆となり、川柳は19歳頃から始め、柳樽寺川柳会の同人となる。その後八十島可喜津らと『きやり』を興します。彼の主張は<日常茶飯>という雑詠主導の姿勢です。作品でもそれを実証してきました。
どの党も積木に似たる政治論
盃を挙げて天下は廻りもち
東京に育ちかぼちゃの花いとし

川上三太郎(1891~1968)
 東京・日本橋に生まれます。大倉商業学校を卒業後大倉洋行に入社しますが、そこを退社して東京毎夕新聞に入社。川柳は14歳頃より井上剣花坊の柳樽寺川柳会に所属します。国民川柳会を発足させ、それが現在の川柳研究社となります。二刀主義を唱え『天気晴朗』、『川柳二百年』などの著作があります。
さぼてんにひとり娘のやうな花
貧乏を子もうすうすは知っている
仲見世の雨はそのまま灯に染り

前田雀郎(1897~1960)
 栃木県宇都宮市に生まれます。宇都宮商業卒業後上京して阪井久良岐の門を叩きます。都新聞社に入社。『都新聞』に川柳欄を新設。その後川柳誌『みやこ』を創刊します。俳諧味のある作品が多く、川柳の研究にも熱心で、多くの学術書を残しました。門下から研究者が多く輩出しています。
学校は面白いかと子に酌がせ
秋風を覗いて帰る曲り角
菜の花に内田百閒昼寝する

麻生路郎(1888~1965)
 広島県尾道市に生まれます。大阪高商卒業後職業を転々としながらも、16歳頃から田能村朴念仁選に投句を始め川柳をスタートさせます。大正13年『川柳雑誌』を創刊。昭和11年には「川柳職業人」を宣言することになります。「いのちある句を創れ」「1句を残せ」を標榜しました。
だしぬけに鐘の鳴るのも旅のこと
鼻の偉大さ山脈を思わされ
ほほえめばほほえむ川田順の恋

椙元紋太(1890~1970)
 神戸市花隈に生まれます。18歳ごろから新聞に投句を初めて川柳生活をスタートさせます。藤村青明に兄事して、昭和4年にふあうすと川柳社が創立された際に代表、編集発行人となります。「川柳は人間である」を標榜して、人と違った個性ある作品を、個々の人間と一体化主導的創作には雑詠が相応しいなど、当時としては一歩前を進んでいきました。
水撒けば浴衣の人がもう通り
母のしたように女房も用があり
床屋ひま村と一緒に昼しずか

岸本水府(1892~1965)
 三重県に生まれ、大阪成器商業を卒業します。新聞記者を振り出しに化粧品、衣料、洋菓子などの宣伝を手がけます。現代のコピーライタの走りでした。17歳ごろ水府丸の号で川柳をスタートさせます。『番傘』創立に参画。伝統川柳の言葉を嫌い、本格川柳と呼ぶことを提唱しました。
友達はよいものと知る戎橋
大阪はよいところなり橋の雨
今にしておもえば母の手内職

 昭和45年に椙元紋太の死によって6大家の時代は終焉しますが、川柳界は彼らが残した実績に乗っかって進んでゆきます。そして川柳界が一つに纏まる風潮の中で、川柳人協会が発足します。昭和49年には名古屋で日本川柳協会の創立総会が行なわれます。初代理事長は片山雲雀が就任しました。加盟吟社は166社。そして、昭和52年第1回全日本川柳大会が行なわれます。第1回川柳大賞が課題「一」から選ばれた下記の作品です。
転がったとこに住みつく石一つ大石 鶴子
 作者は奇しくも井上剣花坊の愛娘です。
 二代目理事長の山田良行の下で、平成4年日本川柳協会は社団法人全日本川柳協会(以下日川協)となり、装いを新たにしました。初代会長には仲川たけしが就任します。全国的規模の大会(全日本川柳大会、国民文化祭、他)に就いては日川協が中心になって進められるようになります。最初の頃の受賞作品を紹介します。
今日と言う幕が台本なしで開く片倉 沢心(第2回日川協大会)
恩を知るおとこに天が深くなる定金 冬二(第3回日川協大会)
スタートの時には見えた虹の空近江あきら(第1回国民文化祭)
白い皿笑顔が透けるまで洗う長谷川博子(第2回国民文化祭)
日の丸の白地に文字を書くなかれ北藤 七星(第3回国民文化祭)
 現在の川柳界は平穏ですが、それゆえに足踏み状態の観があります。それでも新しいものを目指してそれぞれの分野で模索しています。そうした努力が身を結ぶ日も近いでしょう。それを信じて、みんなで力を合わせているところです。

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