川柳人協会

ブラジルの川柳

川柳人協会会員  江 崎 紫 峰 

(1)ブラジル川柳の歴史

ブラジル川柳の歴史については、国際日本文化研究センター教授の細川周平氏による『日系ブラジル移民文学 Ⅰ』(みすず書房)に詳しい。筆者は著者の了解を得てその内容を年表化したが、ここではその年表から簡単に紹介する。

 ブラジルへの日本人の移民は1906年に始まり、ブラジルにおける川柳は1928年に雑誌『農業とブラジル』に川柳欄ができたことに始まる。そして、1929年におぼろ吟社を設立した堀田栄光花がブラジルの川柳界をリードした。1934年以降おぼろ吟社以外に曙やユーカリなどの吟社ができたが、太平洋戦争の時は日本語の出版が全面禁止となり川柳も空白期を迎える。
 戦後はまず柳壇が復活した。

日伯毎日柳壇 栄光花選
吹く風の意思にそむかず上るたこ抜天女
生花やよりそう小花で引き立って葉瑠江
金のある人です若い妻を持ち多魔香
想像の道とはちがう新家庭梅香
 そして、1949年にはぶらじる川柳協会が設立され、翌年にぶらじる川柳社(のち日川協に加盟)を開設しブラジル各地の支部吟社を束ねた。当時の主な吟社は新生、おぼろ、開拓、青空、さかえ、そばづえ、若草らで1951年にはサンパウロで第1回全伯川柳大会が開催された(その後中断期はあったものの毎年開催されている)。参加者は20人で互選・同人選とも1位は次の句であった。
宿命に疲れゆがんだままの靴宿屋丙坊
 1960年代に入るとアメリカや日本との繋がりを強めた。1962年にはアメリカの萬発端川柳吟社主催の世界川柳誌上大会にブラジルから50人が参加し、安藤魔門が総合で第4位に入る。また、1966年の全伯大会は国際大会となり、日本からも高木夢二郎、時実新子、大嶋涛明、大森風来子らが参加した。

 1970年代に入ると女性柳人が台頭し、こなれた口語で背伸びせずに身の回りを詠む句風が現れた。柿嶋さだ子(二世)、藤倉澄湖、那須アリス(二世)、なかでも世評を得たのは飯塚朝子である。朝子は1991年と1993年にNHK大会で最優秀賞を得た。
ささやかに暮らし土鈴ふところに(1991年)
にぎやかな子育てだったフライパン(1993年)
 これはブラジル柳人が日本で得た最高位の賞である。
2006年には移民百周年記念大会が開催されて42人が参加した。また2008年には『移民百周年記念句集』が発刊され、11支部吟社112人が参加した。なお、この句集には全日本川柳協会会長が祝辞を寄せている。

(2)ブラジルの現代川柳

①『移民百周年記念句集』より7句
育つ子の温みで耐えた移民妻柿嶋さだ子
精農の胸に勲章などはない上野明星
意にそわぬ石も流れに逆らえず土井静枝
一言で雲を払って出た日差し森山天拝
訪日は移民の凱歌高らかに井上天晴
追憶の本心言えば目がうるむ高橋和三
開拓の夢も儚く移民墓地上川好秋
②第61回全伯川柳大会(2014.9.13)「自由吟」特定選者選上位7句
聞き上手相手の裏も知るゆとり大城戸節子
耐えること美学に今朝の米を研ぐ柿嶋さだ子
老いてなお一歩一歩にある試練五十嵐美佐子
しっかりと身の丈で咲く花となれ竹内良平
病む人に寄り添う事のむつかしさ福田広子
八十路生き怖いもの無し友が居る藤倉澄湖
世渡りの下手な人から学ぶコツ井上風車

(3)ブラジル川柳界の現況

①支部吟社の状況
 2008年頃には11吟社で川柳人口は約120人であったが、2014年には毎月句会を開いているのはサンパウロ新生吟社、ロンドリーナ親和川柳吟社、ローランジャ川柳会、オザスコ聖西吟社、アブカラナ双葉川柳会の5社で活動会員は約65人となり、2008年頃と比べ凡そ二分の一の規模に縮小している。

②現状の問題点
・会員の高齢化は切実な問題である。後続部隊(移民)が途絶えた今、日本語を話せても読み書きまでできる人は減少の一途である。因みに会員の平均年齢は84~85歳。

・『ぶらじる川柳』は発行のつど総領事館にも送っているが、支援を得られるのは稀で会の運営は会費と寄付のみに依存している。
・日系社会は二世から三世の時代に移り、日本語の文学は先細りになっている。

日本に期待すること(会員からの声)
・全日本川柳協会の誌上大会(平成柳多留)、同全国大会、国民文化祭川柳大会への応募作品の投句料を免除していただけないか。
・日系移民者による川柳活動は南米だけでもブラジルやアルゼンチンで行われている。かってはペルーやボリビアでも行われていた。全日本川柳会等で海外の川柳活動の実態を把握し、指導と支援をして下さることを要望する。

海外の川柳事情 目次

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